飛鳥時代(後半)のまとめ~中大兄皇子(天智天皇)、天武天皇

では最初に、今回のまとめから。

  • 聖徳太子の死後、蘇我氏さらに強大化
  • 中大兄皇子と中臣鎌足が協力
  • 645年乙巳の変=蘇我氏排除→大化の改新スタート
  • 改新の詔…公地公民、国司郡司、戸籍計帳、新税制
  • 阿倍比羅夫→蝦夷、粛慎征討
  • 白村江の戦いで敗北→防備=防人、大津宮
  • 近江令、庚午年籍
  • 672年天智天皇死後、壬申の乱→大海人皇子勝利
  • 天武天皇…皇親政治、八色の姓、飛鳥浄御原令
  • 持統天皇…藤原京
  • 文武天皇…大宝律令(701年)
  • 二官八省一台五衛府
  • 五畿七道、国郡里制
  • 租庸調、雑徭、兵役、出挙

593年に聖徳太子が摂政になってから飛鳥時代ということでしたが、今回は622年に聖徳太子が亡くなった後の話です。

蘇我氏が強大化し、聖徳太子が目指した天皇中心の中央集権国家は実現しないかもしれない、その一方で近隣には唐という強力な国ができた・・・

日本も唐と渡り合えるような中央集権の仕組みを整えなければならない・・・

という話でした。

大化の改新スタート

国内がグダグダではまともに唐と話し合うこともできません。

ということで中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、中臣鎌足(なかとみのかまたり)と協力して蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)父子を倒します。

それが、

645 乙巳の変(いっしのへん)「むしごはんでイルカ暗殺」

です。

ここから始まる諸改革をまとめて「大化の改新」と呼びます。

701年の大宝律令制定で、大化の改新は完成します。

中大兄皇子と中臣鎌足は、同じ塾に通ってたんですけど、その塾があの、隋に留学して戻ってきた南淵請安(みなみぶちのしょうあん)です。なんか吉田松陰の松下村塾みたいですね。

塾に通う途中で蘇我氏を倒す相談をしていたなんて話もあります。

面白いことに、蘇我入鹿も同じ塾に通っていて、秀才と言われていたそうです。

  • 蘇我入鹿…611年生まれ
  • 中臣鎌足…614年生まれ
  • 中大兄皇子…626年生まれ

で、中大兄皇子だけずいぶん年下なんですけどね。

あ、ちなみに、中臣鎌足は若い頃は中臣鎌子って名乗ってたそうです。「カマコ」って・・・現代人が聞くと、響きがちょっと・・・アレですが。^^;

まあとにかく、中中コンビで協力して、蝦夷・入鹿の親子を倒しました。そして大化の改新スタートです。

中大兄皇子の政治

まず645年に元号を「大化」とします。日本初の元号です。唐と違う元号を作ったところに、「唐とは別の、唐と対等な国なんだぞ」という意思表明を読み取れます。

唐の元号をそのまま採用すると、「日本は皇帝陛下が与えてくださった暦をありがたく使わせていただきます」ということで立場が下になってしまいますから。

蘇我氏はというと、いなくなったわけではなくて、蝦夷・入鹿を裏切って中大兄皇子に協力した蘇我倉山田石川麻呂(長っ!)はご褒美として右大臣にしてもらっています。

また、留学生として隋や唐で学んできた高向玄理(たかむこのげんり)、旻(みん)国博士(くにのはかせ)=政治顧問、相談役となります。

天皇は皇極(こうぎょく)天皇という女帝から孝徳天皇という男性の天皇に変わります。

これは史上初の「生前譲位」で、なぜ譲位したのかは謎ですが、「天皇の地位は天皇家の意志だけで自由に決められるのだ」ということを示したのではないかという説もあります。

皇極天皇は天皇をやめた後も相変わらず権力は持っていて、後で再び天皇になります。これを「重祚(ちょうそ、じゅうそ)」と言います。

また、都も奈良県の飛鳥から難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)つまり現在の大阪市に移ります。

なにわながらとよさきのみやって・・・いくらなんでも長すぎでしょう・・・。年賀状とか書く時大変でしょう・・・。

それはさておき。

改新の詔

次の646年に「改新の詔」を発します。内容はたったの4か条です。

  1. 土地と人民の国有化=公地公民
  2. 新しい地方制度→都、畿内、国司、郡司など
  3. 戸籍計帳の作成と班田収授の実施
  4. 新しい税制

この4か条。

第一条と第二条は、なんだか明治維新の廃藩置県と似ていますね。

公地公民は、それまで天皇や豪族が私有していた土地を国のものにしてしまうということです。

当然反発が考えられますので、上級豪族には食封(じきふ)、下級豪族には布帛(ふはく)と言って、要するに給料みたいなものを払うことにします。

食封というのは一定の地域の家を「封戸(ふこ)」と呼んで上級豪族に割り当て、そこから納められる税の大半を豪族の収入とする、という仕組みです。

それに対して布帛は漢字の通り「布」ですので、下級豪族には絹などの布を給料として払ったのですね。布がお金代わりだったんですね。

戸籍は公地を人民に貸し付けるための台帳で、計帳は税を取るための台帳です。二つで一つみたいなものですね。

670年に庚午年籍(こうごねんじゃく)という戸籍ができてやっと実現します。

あとは有名な班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)ですが、これは6歳以上の男女口分田(くぶんでん)を貸し与え、生きている間はそこを耕作させて税を納めさせ、死んだらその土地は返還させる、という仕組みです。

新しい税制というのは後に租庸調などが定められます。

国内外での争い

このあとまた争いが起こってしまいます。

645年に蘇我氏を倒したあと、皇極天皇が譲位して男性の孝徳天皇になったのでしたね。

で、この孝徳天皇と中大兄皇子が喧嘩してしまいます。

これで戦争にはならなかったのですが、中大兄皇子と元皇極天皇は、主だった人々を連れて飛鳥に帰ってしまいます。

孝徳天皇はあの長い名前の都・・・難波長柄豊碕宮にポツンと取り残され、そのまま失意のうちに亡くなりました。

その後、元皇極天皇が再び即位し、斉明(さいめい)天皇となります。

中大兄皇子は相変わらず天皇にはならなかったんですね。天皇ではありませんが、皇太子として大きな権力は持っています。

蝦夷・粛慎の征討

天皇に権力を集中したいわけですから、東北地方の人々にも言うことを聞いてもらわないといけません。

東北はまだ外国みたいなものだったのですが、阿倍比羅夫(あべのひらふ)を派遣し、蝦夷(えみし)、粛慎(みしはせ)と呼ばれた人々を征服させます。

蝦夷は当時の東北の人々を指す言葉ですが、粛慎は正体不明です。阿倍比羅夫が粛慎と戦って天皇にヒグマを献上しているので、北海道ではないかという説もあります。

ここまではまだ、朝廷にとっては「征討戦」、つまり「上から目線」で苦しい戦いとは言えないのですが・・・

このあと、それどころではなくなります。

白村江の戦い

660年、日本と親交のあった百済が、唐と新羅の連合軍によって滅ぼされてしまいます。

その時、百済の王子様は日本にいて助かったのですが、当然、日本に援軍を求めます。

普通なら、

「え~・・・新羅だけならともかく、唐もいるんでしょ? しかも海を越えて攻めに行くなんて無理無理無理無理・・・」

となりそうなものですが、斉明天皇は「任せておきなさい」とばかり出兵することにします。漢らしい女帝です。

しかも斉明天皇は自ら最前線に近い筑紫(福岡県)まで赴きます。まったく漢らしい(略

天皇自ら都を離れて最前線近くまで行くくらいですので、「日本存亡の危機」くらいに考えられていたのかもしれません。

しかし斉明天皇は戦争が始まる前に筑紫の地で力尽き、崩御してしまいます。既に70歳近くで、当時としては非常に高齢でしたので無理に無理を重ねていたのかもしれません。

天皇が亡くなっても中大兄皇子が健在ですので、天皇の軍は止まりません。

663年には海を渡って、唐と新羅の連合軍と戦うこととなります。

663年 白村江(はくすきのえ、はくそんこう)の戦い「む、むざんに敗北白村江」

でも流石にこれは無理です。相手は唐と新羅の連合軍で、しかも海の向こうです。補給も満足にできません。ということで大敗北を喫します。

ちなみに新羅はこのあと高句麗も滅ぼし、朝鮮半島を支配しようとした唐の勢力も追い出して半島を統一します。新羅も「国家存亡の危機」だったわけですね。

さて日本ですが。

国内の防備を固める

大敗北を喫して

「やべーよ、唐とか思ってたよりちょーつよくね?」
「今度は逆に海越えて攻めてくるんじゃね?」

ということに、いやこんな乱暴な言葉は使いませんがそんな感じになります。

ということで中大兄皇子はさっそく防備を固めます。

対馬や壱岐、筑紫に防人(さきもり)を多数配置、大宰府の北に水城(みずき)という、水を利用した城壁を築きます。

また九州各地に朝鮮式山城を作ります。名前の通り、山を利用し、斜面には石塁や土塁で防壁を造った城です。大宰府北部の大野城が有名です。

それから都は奈良県の飛鳥から、滋賀県の大津宮に移します。戦うにしても逃げるにしても、琵琶湖と淀川は移動に便利だからです。滋賀県に日本の首都があったなんて、意外かもしれませんけど。

日本初の令、近江令

これだけでは足りません。国内政治が混乱していては、天皇が命令しても満足に実行されないかもしれません。

そこで中央集権体制を確かなものにするために近江令(おうみりょう)という法を作ります。

の法制度を手本とした律令(りつりょう)という国の基本法をつくりたいのですが、そのうち政治に関係する令だけを作ったということです。

とにかく、政治において、天皇の命令がスムーズに実行されなければ、戦争どころではないので令を優先したということでしょう。

その後、さきほど一度説明した庚午年籍という戸籍も作り、668年にやっと、やっと正式に即位して天智天皇(てんじてんのう)となります。

まあ実質天皇みたいなものでしたが、ここで正式に天皇となります。

その翌年、ずっと協力してくれていた中臣鎌足が亡くなりますが、亡くなる前日に「藤原」という姓を与えます。後に絶大な権力を持つ藤原氏の始まりです。

でも天智天皇は、やっと即位したと思ったら672年に病死してしまいます。

ここで問題発生!

壬申の乱

もともとは天智天皇の次は、弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)が天皇になる予定でした。「だいかいじん」と読んではダメですよ。「おおあま」です。

ところが天智天皇は弟ではなく自分の息子の大友皇子(おおとものおうじ)に次の天皇になってほしいと考えるようになりました。

そこで病床にあった天智天皇は、大海人皇子を呼び出して、

「キミ、次の天皇になる気あるの?」

と聞いたそうです。

ここで大海人皇子は「これは危険だ。ハイと答えれば殺されるかもしれない」と思い、全力で否定して、髪を全部剃って僧侶になり、なおかつ吉野の山奥に引っ越しておとなしくしていたそうです。

天智天皇は逆らう者には容赦しなかったので、大海人皇子もそのように解釈したのでしょう。

しかしこの直後に天智天皇は崩御しますので、大海人皇子の捲土重来ということになります。

そして皇族同士で戦争ということになってしまいます。

これが672年の壬申(じんしん)の乱です。任申って書かないように。「にんしん」になります。

672 壬申の乱「ろくな兄さんじゃなかったんだ!」

天武天皇…強力な天皇中心の政治

大海人皇子は大友皇子を破り、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)を新しい都として即位、天武天皇となります。

天武天皇は天皇の権威だけでなく、武力も用いて天皇になったわけですので、もう誰も逆らえません。最強の天皇です。名前も「天の武」ですし。

ということで天武天皇は、聖徳太子以来の悲願であった天皇中心の政治を強力に進めていくことになります。

まず朝廷の重要な役職にはすべて皇族を置きます。これを皇親政治と言います。

また、天皇中心に皇族や豪族の階級を整えるため「八色の姓(やくさのかばね)」という階級制度を作ります。

八色の姓というくらいだから8階級あります。

上から、

  1. 真人(まひと)
  2. 朝臣(あそみ)
  3. 宿禰(すくね)
  4. 忌寸(いみき)
  5. 道師(みちのし)
  6. 臣(おみ)
  7. 連(むらじ)
  8. 稲置(いなぎ)

です。

氏姓制度で蘇我氏や物部氏が与えられた最高位の臣・連の上にさらに5階級も作ったわけですよ。

天武天皇は

「豪族なんて高々こんなもんだよ、皇族の方がずっと上なんだよ」

と言いたいわけですね。

最上級の真人になれるのは皇族のみです。

上から順に

まあくん、すいみん「オムライス!」(寝言)

とでも覚えておきます。

法としては飛鳥浄御原令を作り始めますが、完成は次の持統天皇の頃となります。

また、日本最古の貨幣である富本銭がつくられるのもこの頃。

大王ではなく「天皇」、国の名前は「日本」とされたのもこの頃だという説も強いです。

また、国際的な危機を乗り越え、中央集権国家も完成して一段落、ということで、「この辺で日本の歴史や文化をしっかりと確認しておこう」ということになり、歴史書の編纂に力が注がれます。

まずは帝紀・旧辞という歴史書を整理し、それを稗田阿礼(ひえだのあれ)という人に暗唱させました。アレさん!

稗田阿礼さん、全部覚えさせられたんですね。^^; 名前もすごいけど記憶力もすごいです。稗田阿礼さんにとっては、日本史の教科書1冊丸暗記とか楽勝なんでしょうね。

で、稗田阿礼さんが暗誦したことをもとにして、奈良時代のはじめには古事記が完成します。

持統天皇…天武天皇の方針を引き継ぐ

天武天皇が亡くなった後は、皇后が即位して持統天皇となります。この時代、女性の天皇多いですね。

持統天皇は基本的に天武天皇の方針を引き継ぎます。

飛鳥浄御原令を完成させ、庚寅年籍(こういんねんじゃく)という新しい戸籍も作ります。

そして694年には、畝傍山・耳成山・天香久山の大和三山に囲まれた地に、日本初の都城制の都である藤原京を造り、遷都します。

694年は平安遷都のちょうど100年前なので覚えやすいです。

都城制というのは要するに中国風の都ということです。碁盤の目のように整えられたアレ。

大宝律令=大化の改新の完成

次の文武(もんむ)天皇の時に、ついに律令が完成します。これまでは令だけでしたからね。

701 大宝律令「名は人も知る大宝律令(たいほうりつりょう)」

刑部親王(おさかべしんのう)と藤原不比等(ふひと、鎌足の子)が中心となってまとめたものです。「オサカナ」じゃありません「オサカベ」です。

律は刑法、令は行政法その他です。

大宝律令は残っていませんが、その後718年に作られた養老律令で大宝律令の内容の大部分を知ることができます。

中央の役所

令には、二官八省一台五衛府(にかんはっしょういちだいごえふ)という役所が定められています。

二官太政官(政治担当)、神祇官(じんぎかん、祭祀担当)
一台弾正台(だんじょうだい、行政監視役)
五衛府…衛門府、左右衛士府、左右兵衛府(都の警備、要人警護)
八省
中務省(なかつかさ、詔書の作成など)
式部省文官人事、養成)
治部省(じぶ、外交事務、仏事)
民部省(人民担当、の管理)
兵部省(ひょうぶ、武官人事、軍事)
刑部省(ぎょうぶ、刑罰決定)
大蔵省財政管理)
宮内省宮中の事務)

となっています。八省は覚えにくいですが^^; 上から順に

「なしじみ!ひぎおく!」

とでも覚えておきます。何回も言ってれば覚えます。^^;

太政官が今の内閣のようなもので、太政大臣とか左大臣とか右大臣はここに属しています。

神祇官は全国の神社を統括しています。全国の神社は地元の民衆に朝廷が決めたことを伝えます。神社が市役所みたいなものなんですね。

官位相当の制

役人には位階が与えられて、位階に応じた役職につくことになります。これを官位相当の制といいます。

位階というのは正一位(しょういちい)から始まって、従一位、正二位・・・と続いていくアレです。

五位以上は貴族と呼ばれ、彼らの子は21歳になると自動的に親の位階に応じた位階をもらえます。蔭位の制(おんいのせい)と言います。

五畿七道、国郡里制

地方は都周辺の五畿=畿内地方の七道にわけられます。

また、さらに細かく国郡里(こくぐんり)に分けます。国というのが武蔵国とか下総国とかいうやつで、だいたい都道府県くらいの大きさです。その中に郡、更にその中に里があります。

それぞれ、政治を任されている役人が、

  • 国…国司(こくし)
  • 郡…郡司(ぐんじ)
  • 里…里長(りちょう、さとおさ)

と呼ばれます。

租庸調、雑徭、兵役、出挙

班田収授の法も令に定められています。

6歳になると男女とも口分田を与えられます。そしていろいろな税を取られます。

収穫の約3%(土地1段につき2束2把)を米で納めるのがです。これは地元の国司に納めます。

(よう)はもともと都で働くという税でしたが、を納める方式に変わっていきました。

調特産物、またはを納めます。

ちなみに庸調はまで自分で運ばねばならず、都から離れている地方ほど重税となりました。

雑徭(ぞうよう)は国司のもとで最大60日働かされる税です。^^;

兵役の義務もあって、3~4人に1人の割合で兵士にならねばなりません。ちなみに都を守る兵士は衛士(えじ)、九州北部は防人(さきもり)と言いました。

ここまで書いた負担で、租以外は男子のみ負担です。^^; まさに男はつらいよです。

だから男子が生まれても、女子と偽って役所に届ける人も多かったのだとか。

さらに!

無理やり稲を貸し出して最高50%もの利息を取る出挙(すいこ)というのもありました。実質的に税ですね。役所に納めるのを公出挙(くすいこ)と言います。

豪族などが私的に貸す私出挙もあり、こちらは税ではありませんが利息は最高100%だったそうです。(泣)

ちょっと多くなったのでまとめましょう。

  • 租…収穫の3%→国司
  • 庸…都で働くor布→都
  • 調…特産物or布→都
  • 雑徭…無償労働→国司
  • 兵役→各地
  • 出挙→国司、郡司

白鳳文化

最後に白鳳(はくほう)文化について。

白鳳文化は天武天皇、持統天皇の時代を中心とする文化です。

と、やはり仏教の影響が強い文化です。

最も有名なのが薬師寺

天武天皇が皇后の病気快癒を願って建立したものです。

法隆寺と同じで、こちらにも薬師三尊像というのがあります。

壁画も有名で、法隆寺金堂壁画はこの時代に描かれました。

高松塚古墳壁画も有名です。